『鯨波』を生んだころ

佐藤和雄さん
S51年(1976年)卒業  #第40回記念寄稿


山口県立宇部高校には、実家のあった阿知須町(現・山口市)から4年間、宇部線で通った。通常の3年間より1年増えたのは、補修科文系クラスに進んだからだ。

 現役の時には、文藝部と陸上部に所属し、書いたり、走ったりしていた。しかし、補習科となれば、そのような「部活」はない。「部活」はないが、受験勉強だけで毎日を過ごせるわけはない。補習科にいた者たちと二つのことを始めた。一つは、『』と題した同人誌の創刊である。これは今も手元にある。まず6月に第1号を刊行し、11月に第2号を発行した。印刷・刊行は宇部タイプ印刷にお願いした。(おカネをどう工面したか、さっぱり記憶がない。)

 今は亡き今井宏明くんが「創刊の辞」をこう書いている。一部を引用したい。

「私達はとにかく『時の声』をあげるのです。意志を表示するのです。全てはそこからだと思うのです。それがやがて『大きな波』を起こしてくれれば、『大海』のようになってくれれば、私達は此れ程うれしいことはありません。」

 もう一つは、バンド演奏だ。これは同じく『鯨波』で創作をやっていた田中龍正くんからの誘いだったと思う。音楽などまったくやったことのない自分だが、田中くんからドラムス一式を借りて、周囲を田んぼが囲む自宅の一室で連日のように叩いていた。曲は、イーグルスの『ホテル・カルフォルニア』など。誰からも教えられることもなく連日叩いた。それで上手くなることは、よほどの才能をもたない限りはありえない。バンド演奏は実現しなかった。

 10代のころに文章を書いていた自分の中で、「文章を仕事にしたい」という思いが次第に強まることになった。あれやこれやと彷徨いながら、新聞記者になった。新聞記者は50歳で辞めたが、いまだにジャーナリストとして文章を書いている。その根っこには、あの補習科での経験があるのかもしれない。最後まで「あの頃」を忘れずに生きてみようと思う。


元『朝日新聞』記者、現在はジャーナリスト、『週刊金曜日』契約記者

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