卒業生インタビュー 03

「妖怪と建築のお話」

株式会社藤本壮介建築設計事務所
國清 尚之さん 2012(H24)年卒業
(取材日:2022.06.12 場所:日比谷公園・帝国ホテル)

―現在は、どのようなお仕事をされてらっしゃるのですか?

(國清さん):建築家の藤本壮介氏が主宰する設計事務所の所員として建築の設計をしています。携わっているプロジェクトだと、例えば、2025年に開催される大阪・関西万博全体の会場計画です。その他には、岐阜県飛騨市の駅前の開発計画や小さな喫煙所の設計など、複数のプロジェクトをチームで進めています。

―それは、大役ですね!
万博の設計というと、どんなことをされるんですか?

(國清さん):万博では、毎回会場全体の計画をする人(会場デザインプロデューサー)がいます。1970年の大阪万博では、当時の日本建築界を代表する建築家だった丹下健三さんが担当されました。簡潔に言うと、万博のコンセプトを体現する会場計画を作る役割で、その計画をベースに色々な建物が建ってくるのですが、その方針をコントロールもしくはディレクションするような役割もあります。今回の万博では、僕の所属する設計事務所のボスである藤本さんが会場デザインプロデューサーという役を担っています。確か2020年の春くらいにその打診があり、「プロジェクト担当をやらないか?」と藤本さんに言われました。正直その話を聞いたときに、オリンピックのように、どう頑張っても批判されてしまうような事になりかねない不安があったのですが。。。でも藤本さんは「やらないより、やった方がいいんじゃないかな」という考えだったので、「じゃあやりましょう。」とキックオフしたことを覚えています。

―万博設計での國清さんの役割はどのようなものですか?

(國清さん):藤本さんが会場全体のディレクションを進める中で、その方針を決めるための検討作業や、他に携わられている数多の設計者との調整作業など、全般的に藤本さんのサポート業務をする人が必要です。僕のチームがそれを担当しているという感じです。

―かなり中心的なポジションですね。―

(國清さん):そうですね。。。万博をやり始めてもう3年目くらいになりますが、すごく難しいプロジェクトで、これまでにない経験をさせてもらっています。ひとつの建物を作るのももちろん大変ですが、万博のような巨大プロジェクトを誰がどう決めてるのかを一番近くで見られるのってすごいことだと思うんです。変な話、僕が決めている部分とかも実際あるので、荷が重いと思うこともありますし、日々すごく勉強になりますね。

―九州大学工学部建築学科から東京藝大大学院に進学した理由は?

(國清さん):大学院進学を考えているときに、藝大に知人がいて、その方と東京で食事をしたことがあったんです。そのときに他の藝大生の方を連れてきてくれたんですが、話してみて「藝大生けっこう嫌いだな」と思ったんです(笑)。 なんか笑いのツボが違ったり、独特な世界観があったりして会話が上手く噛み合いませんでした。でも、嫌いなものって逆に気になってきちゃうもので、それがきっかけで、東京藝大大学院の受験を考えました。ないものねだりに近い感覚でしょうか。理解できないからこそ飛び込んでみようかな、という感じでした。

―結果的に藝大に入って印象は変わりましたか?

(國清さん):多少良いところも見つかったと思います(笑)

―留学でリヒテンシュタインを選ばれたそうですが

(國清さん):もともとスイスに行きたいと考えていました。でも交換留学できる大学がスイスにはなくて、近くのリヒテンシュタインに決めました。スイスが良かった理由は、言語に限らず、建築的にも何もかもが違う場所という見立てがあったからです。現代の日本は緻密に計算されたシステムとして都市が作られています。特に東京とかだと「人はここを歩いてください」と決められていることが多いので、人が歩くより先に道ができるんです。一方でスイスとかは、人が歩いた場所が道になります。草の生え方とか山の地形で人が通った道が見えてくるんです。どういうメカニズムでそういう道ができているのか、すごく気になって「実際に確かめたい」と思ったのがきっかけです。結果的に、スイスは意外と街がちゃんと作りあげられていたので、リヒテンシュタインくらい小さな国の方が、自分の想像していた風景に近かったと思います。

―留学期間はどれくらいでしたか?

(國清さん):約1年です。その1年間でリヒテンシュタインの他にもたくさんの国に行きました。まず、藝大は休学して4月の初めに日本を出ました。留学の開始自体は9月からだったので、それまではバルセロナ、パリ、ロンドンにそれぞれ約1か月ずつ滞在していました。残りの1か月でも他に色々行きましたが、バルセロナ、パリ、ロンドンでの3か国は僕の中でもすごくグラデーショナルに日本とリヒテンシュタインシュタインをつなぐ都市だったという印象です。

―その3か国では何をしていましたか?

(國清さん):1人でそれぞれ1カ月間ひたすら街を歩いていました。

バルセロナには旧市街地と呼ばれるエリアがあります。何百年も前から都市の壁や道が強い骨格として残っているのですが、道にポツンとゴミ箱が置いてあったり、路地に入ると突然壁一面に洗濯物が干してあったりします。まるで都市に人の生活が「寄生」しているみたいに見えました。何百年前からあるものを「こういう風に使ってやろう」という人間の欲求が見えるのがすごく面白かったです。

パリでは「パサージュ」という小さな商店街のようなものを調査しました。お店やカフェが立ち並んでいるのですが、店先まで商品が置かれていたり、カフェのテラス席が道まで出たりしています。その道幅と道にかけられた屋根も相まって、道でありながら人が滞在する空間でもある、曖昧な都市空間が形成されています。僕はそのパサージュの断面気になって調査をしていました。

―具体的な調査方法は?

(國清さん):「パサージュ」の断面図を作るために、コンベックスのような距離を測れる道具を使って、地面からの高さ等いろいろ調査しました。80くらいの断面を取り出して、高さをひとつひとつ図ってギザギザの図を作っていただけなのですが、傍から見たら怪しかったんだと思います。2回くらい取材を受け、5回くらい警察も来ました。調査は結果的に何か明確な結論があったわけではありませんが、断面の寸法や構造がなんとなくわかりました。

―本命のリヒテンシュタインでは建築を学んだんですか?

(國清さん):そうですね。建築に関する授業はたくさん受けましたが、一番印象に残っている授業は「Analogy(類推)」という授業です。建築をつくる理論に関する授業の副題の一つで、類推という考え方をもとに理論を考えてみるというものでした。

例えば、ロンドンやウィーンなどの5都市のタクシードライバーの映像が集められた映画と、オランダのロッテルダムにあるKunsthalという美術館があって、どちらも1992年くらいに作られたものなんです。このことが偶然でないとしたら何が言えるだろうか、という問いに対して生徒たちが意見を述べます。この美術館には、建物の上にオレンジ色のH鋼が乗っています。H鋼というのは、もともと建物を支えるために効率的に作られた形状のもので、その機能あってこその物なのに、何も支えることなく乗っているという状態です。

教授はこの事例について、「グローバル化が当たり前になってきた世界では、ある場所でできた建築の言語が切り貼りされて別の場所で読み替えられることがある」と話していました。タクシードライバーの映画は、5都市の映像が切り貼りされることで、場所も時間も異なる人々の日常が地続きのものであるという、グローバル化によって生まれた人々の感覚を示唆しています。建築で同様の切り貼りを行うことで、本来の意味から切り離されてデザインが読み替えられていく、という考察です。

この授業では建築がどういった理論でできているのか、ということを同時代の映画や文学を用いて類推していきました。授業外では、僕なりに獣道をそういう視点で見て考えていました。どうして広大な芝生の中で人々はそこを歩いたんだろうって。自分でひたすら類推していました。

―常に「なぜ?」という視点を持って物事を見ているんですね。
建築科の制作というと街の設計とかその模型作りというイメージがありますが、國清さんのテーマは?

(國清さん):僕の修士制作は「妖怪建築」です。街の設計や模型作りというより、もっと理論的なことをあるスケールに落とし込んで表現することがテーマでした。僕が当時やりたかったのは、世の中に存在していないもののための建築をつくることでした。妖怪と建築の関係について研究していく中でわかったのは、「建築がなければ妖怪は存在しない」ということです。人間は自分が人間であることを説明するために、人間でないもの=妖怪を生み出します。

例えば「天井舐め」という妖怪がいます。天井にできたシミを妖怪が舐めたと説明するために作られた妖怪です。昔、屋根裏は人の死体を隠す場所でそれが原因で天井にシミができていたんですが、シミのせいで悪事がバレてしまいます。人間はそのことに関心を持たせないために「天井舐めの仕業だ」としていたんです。

これはまさに建築と妖怪の関係として重要な例で、天井がなければ「天井舐め」は存在しません。天井がなくなればこの妖怪はいなくなります。つまり、「天井舐め」というのは、建築を通して表現された人間の悪い部分という言い方ができます。こういうことが現代建築を通してなくなっていったんじゃないか、ということが僕の問題提起でした。

建築に限らず都市や地形でも同じことが言えます。そこから現代の東京でもそんな妖怪を探そう、ということを始めました。妖怪が出ると言われている時間帯にリサーチの時間を決めて、そこで見つけた現象を「こういう妖怪の仕業ではないか」と考え、新しく妖怪を作っていきました。「天井舐め」の舌が長いように、妖怪は身体性に無駄がなく説得力があります。逆にいうと、その妖怪の姿を描けば、それが成立するための建築や空間は必然的に立ち上がってくるんです。自分の作った妖怪を通して場所の特性を分析し、「その妖怪が居続けることのできる建築」を設計したのが僕の修士制作です。

―留学の経験は生かされましたか?

(國清さん):ある意味生かされたと思います。世の中で起きている不思議な現象の理由をストーリーにしていく、というのが先ほどの類推に似ていると思います。修士制作で重要だったのが、ただ「妖怪のための建築をつくった」ことで終わりではなく、そこから「人間のための建築とは何か」が逆説的に浮かびあがってくるのではないかと考えたことです。

現代は一部の機能や便利さだけを追求しがちで、人間の可能性をものすごく縮小しています。人間以外のものに注目することで、「人間、意外とこれでもいけるじゃん」みたいな側面が見えてくると思います。

―万博がとても楽しみですね。

(國清さん):そうですね。ただ、日々色々悩んでいます。建築家としてちゃんとしたステイトメントを作ったうえで一般の人にも「良いな」と思ってもらえるものを作ることは本当に難しいです。

―小学、中学はどちらに通われてましたか?

(國清さん):小中両方とも藤山です。

―その頃から建築や芸術に興味がありましたか?

(國清さん):これまでの話に無理やりつなげるわけではないですが、昔から秘密基地とかは好きでした。

―その頃からご自分で設計して作っていましたか?

(國清さん):そうですね。といっても友達10人くらいで、廃材を木に括り付けて床を作るとか、、、その程度です。他にも牛乳パックとか段ボールで工作するのも好きでした。当時は公園と思って勝手に基地を作っていたら、「他人の土地だよ」とよく怒られてましたね。

―中学高校では何部に所属していましたか?

(國清さん):ずっと陸上部です。体が柔らかかったので種目はハードルでした。当時はかなり熱中していて、部活ばかりでしたね。

―宇部高時代はどんな学生でしたか?思い出がありますか?

(國清さん):良くも悪くも、すごく真面目だったと思います。やるべきことを黙々とやるタイプでした。行事とかは割と影を潜めてて、あまり協力的ではなかったかもしれないですね(笑)、、

あとは、数学のS先生は今でもよく覚えています。S先生は部屋を自習室として開放してくれていたので、僕はその部屋の常連でした。よく先生の食べ物を勝手に食べて、怒られていましたね。S先生には本当にお世話になりました。

―進路で建築学科を目指し始めたきっかけは?

(國清さん):初めは漫画の影響でハッカーに憧れていたので、京大の情報学科を志望していました。3年の秋ごろ、後期の志望校を考えた時に九大の情報学科を考えていましたが、正式な学科名が長いんです。第一志望しか関心がなく、模試の度に長い学科名を書いてられないって思って、同じ工学部の中で唯一2文字で終わる「建築」に目が留まり、志望として記入していました。

結局、前期試験で京大に落ちてしまったので、後期で受かった九大建築学科に入学する事になったという経緯です。

―入学してからはどうでしたか?

(國清さん):周りは建築好きばかりで、何も知らないことがかなりのコンプレックスでした。僕の持っていた知識なんて「劇的ビフォーアフター」だけだったので。最初に受けた建築デザインの授業で、美術史が出てきたことが全く理解できず、教授に「なんで建築の授業で美術の話をするんですか?」と質問しました。その時教授が唖然としていたのを今でも覚えています。丁寧に説明してくれましたが、やっぱりよくわからなくて、「一筋縄ではいかないな」と思ってそれから本腰を入れて建築を勉強し始めました。

―その後進学、留学を経て、現在日本で仕事をしていて感じることは?

(國清さん):僕は、若ければ若いほど発想力や嗅覚が優れていて面白いと思っています。いま世の中で力を持っている大人たちより僕の方が面白いですし、たぶん僕よりもいまの学生の方が面白い。環境によって、その力を上手く使えていないということが多くありますが、今はSNSを開けばすぐに自分と同じ意見の人を見つけることができます。そういう若い人たちが意見できる世の中になっていってることに僕は賛成です。でも、日本は若い人に対するリスペクトがなく、若い人の力や嗅覚を信頼していません。世代による感覚の差は必ずあって、それを軽んじる世界というのは致命的なるので、年上の人ほど耳を傾けることは必要だと思っています。

あとは、いまだに会議等の重要な決め事に出席するのが年齢が上の男性ばかりというのも気になりますね。女性や子どもの感性が反映されないのはとてももったいないです。新しいことを見つけるには、今こそそういう感性を取り入れるべきだと思います。

―将来的には、宇部に戻りたいと思いますか?

(國清さん):学生の時は、いずれ宇部に戻ると公言していました。「建築を設計するんだ!」という目的がはっきりしていたし、自分で事務所を持てば作りたいものを自由に作れるから、というのが大きかったです。

3年でいまの事務所を辞めるつもりでしたが、万博の話をいただいた時にとりあえず万博はやりきろうと思いました。そうなると結果的にあと3年は東京にいることになります。最初の話にもつながりますが、万博に関しては、この時代にそんな貧乏くじを引くなんて、と思っていましたけど、やりきらなければ今後の自分の未来を肯定的に捉えることができないと思ったんです。万博のようなビッグイベントは、できると信じて「より良いもの」をみんなで作り上げていかなければなりません。少しほころびが出ただけで多方面から寄ってたかって突っ込まれます。だからこそ、すごく難しいと日々感じています。今のところ万博をやりきるまでは、自分の先の事は考えられないですね。

―九州から上京して、すぐに東京に慣れましたか?

(國清さん):初めはかなり辛かったです。ドアを開けると他人がいるという東京にはなかなか慣れませんでした。九州での一人暮らしとは全然違います。いまだに新宿とかは苦手です。都会には便利さを追求したかっこいい道とかたくさんありますが、僕はそういう空間が、やはり肌に合わないです。だから、立ち入り禁止の池とか裏道のような、整備されていない場所がたくさんある地元は気持ちがいいですね。僕は自然発生的にできあがったものの方が風景として好きです。 

―國清さんが街や施設をデザインするならどのような設計をしますか?

(國清さん):具体的な設計だと難しいですが、考え方は基本的に同じです。単に街の人の動きから建築言語を踏襲しようとすると、基本的には面白くないものができる可能性が高くなります。そこにある営みをもっと深く読み込んで、「その建物やその場所でしかできないことは何か」ということを考えることが重要だと思っています。

―最後に現役の宇部高生たちに何かメッセージはありますか?

(國清さん):できる限りたくさんの人と関わって、たくさんの会話をしてほしいです。これはメッセージというより、僕自身が当時を振り返って、やっておけばよかったと思うことです。できれば高校というより中学の時にして欲しいですね。

高校にはある程度、学力的に同じくらいの人たちが集まるけれど、中学にはいろんなタイプの人がいますよね。田舎だと、子供にとって親や教師はすべてを知っている神のような存在で、親や教師もまた子どもを守るような教育や育て方になりがちです。それが結果的に子供に偏見を持たせることに繋がってしまう可能性があります。高校に行くとそのことに気づくチャンスは圧倒的に減るので、僕は中学生の間に色々な人とたくさん会話をしていればよかったなと思います。自分と意見の合わない人と会話をして、どこからがお互いに平行線になるかを確かめ合うような議論はとても重要だと思います。大人たちは、子供たちが何かに合意していくサポートだけでなく、交わらない部分がお互いにあることに気づかせるサポートもしてほしいなと思います。繰り返しになりますが、学生の時はやらなきゃいけないこともたくさんあって忙しいと思いますけど、今の学生には、積極的になるべくたくさんの人と関わって対話をする時間を持ってほしいですね。

左から 西村(S48卒)、桝本(H29卒)、國清(H24卒)、松永(S61卒)
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